丸々三年ぶりのブログ更新。
最早更新と言うよりリスタートと言ったほうがいいのでないかと思うほどのご無沙汰。
ブログを更新していない間にコロナ禍も収束し、日常生活が戻ってきた2024年1発目(2023年も2022年も継続的に更新していたかのような表現)にお届けするのはタイトルにもあるとおり曲について。何度も聞いていた理由と思い入れについて綴っていきたいと思う。
そしてそれとは別にこの記事から以前の「です・ます」の丁寧体から、「だ・である」口調で書くことに挑戦している。下書きをしていた際から今の自分としてはしっくりきているので今後もこっちの文体で書いていくと思われる。
また、以前からこのブログを読んでくれている方はなんとなくほんのり勘付いているかもしれないが、この記事も相変わらずダラダラと長ったらしいので、本っっっっっっ当にやることがなさすぎて死にそうなときに読むのをおすすめする。
ではどうぞ。
My landscape / BiSH
BiSHにハマるきっかけとなった曲。
たまたまラジオでかかっていたのを聞いて、どこか今までのアイドルにはない雰囲気を感じ取ったのが運の尽き、そこから人生無事沼化。
メロディーのカッコよさ先行で、ある種の直感のようなもので好きになったため、特に歌詞も気にせず聞いていたが、よくよく何を歌っているのだろうと歌詞を検索して見てみると、何が言いたいのかわけがわからない。本当にわからない。
その一部を是非皆さんにも見ていただきたい。
ほっとくとどでかく次第にハローハローハロー
Bad Just Do it Do it 食らうといいでもそういかない
終わりです はい ハメは外さない
いっそこのままならばハローハローハロー
bad すぐ出る杭 打たれないように打ち返せたらいいな
それでいいの?
もしあなたがここから何らかの意味が汲み取れるだけの共感力と読解力を持ち合わせているなら、驚嘆に値する。執筆活動など活字を使った活動を心からオススメする。
しかしこの歌詞の謎はすぐに判明する。
何かのインタビューで制作者が「とにかく格好良さ重視でメロディー作って、語感や響きの格好良さ重視で単語やフレーズを繋げてる部分が多い」と語っており、意味ないんかい!!と驚いたのをよく覚えている。
すごいぞBiSH!かっこいいぞBiSH!!ということで今に至る。
ただ、これだけカッコよさ重視で作成しただけあって、ライブ映えする一曲となっている。
この動画はオリジナルバージョンではなくBiSH活動後期の定番アレンジのバラードバージョン。解散ライブでもオリジナルバージョンではなくこのバージョンで披露された。ちなみに世間一般では4:20のアイナの雄叫びが広く評価されているが、ここでは3:21に繰り出される推しのアユニちゃんの「そんな格好いいスライディングある?」ってくらいのスライディングを推しておきたい。
ペチカの夜 / アイナ・ジ・エンド
BiSHが活動していた頃、アユニ・Dは推しつつも、私の基本的な推し活のスタイルはいわゆる「箱推し(特定のメンバーではなくグループ全体を推すこと)」であった。
BiSHが解散した今でこそ個々の活動を追いかけているが、当時は個人のソロ活動にはあまり興味がなかった・・・・・というのは嘘で、「あえて追いかけなかった」と言うのが正しい(なんの嘘やねんと思ってくれた人とは友達になれそうな気がする)。
箱推しをしているのにソロ活動を追いだすと矛盾している気がして追わなかったのである。今思い返すと、無駄なプライドというか、そんなポリシー早く捨てて当時から熱心に追いかけておけばよかったと猛省するばかりである。
そんな中、去年の6月にBiSHが解散し、個々のソロ活動を追い始めようと決めた際、まずしたことは各メンバーがソロで出していた曲を聴き漁ることだった。その中で出会ったのがこの曲だ。
アイナはBiSHのときから歌唱において主砲扱いで、そのハスキーな歌声と表現力の高さも相まって、サビはもちろん曲の肝心な部分を任されることが多かった。
正直なところ、BiSHじゃなくても大成するだろうなというポテンシャルの持ち主だった。悪い意味で言っているわけでは決してないが、この曲はアイナがBiSHまたはアイドルというものに縛られなかったらどこまでいけるのかをうまく体現していると思う。
想像ではあるがこの曲が出されたのはBiSH解散前なので、「アイドルのソロ活動」という色目もあったかと思う。しかしこの曲はそういう輩の目を一発で覚ますほどのインパクトがあったに違いない。それくらいにアイドルという枠を突き抜けた出来だと思う。最早、格闘漫画における「本気を出す時に超重量のリストバンドやベストのようなものを外すシーン」さえ彷彿とさせる。何を急にwと思うかもしれないが、実際に現在の彼女の活躍は目覚ましい。この1年、彼女に全く興味がない人でもきっとどこかで彼女の活動を見かけたはずだ。この曲を歌えるのだから、今のこの活躍も当然だと思えるほどにペチカの夜は名曲だと思う。
緻密な曲構成を堪能してほしいのでこれはオリジナルバージョンで聞いてみてほしい。
三億円 / chelmico
自分がこの曲を初めて聞いたのはコロナ禍真っ只中で、漠然と閉塞感漂ってる世の中に暗い気持ちになりがちなときだった。
世に放たれている曲を全て把握しているわけではないが、コロナ禍真っ只中の当時は「大変だけど頑張りましょう」というようなアリナミンVよろしくな元気づけソングが多かったし、実際そういう曲を好んで聞いていたような気がする。
そんなときに平成中期のようなご機嫌ラップとゴリゴリのリフ?メロディーが心地良かった。歌詞も「非課税で三億円ください」とふざけてはいるものの、コロナ禍の状況を反映してて「そうそうそう、確かにそうやわ」「パーッとそうしたい!」というような当時の心境を代弁してくれてたような気がして何度も聞いていた。
ちなみにPVに出てくるあのプールは紳士御用達のあのプールよね?
夢のはなし / CHAI
気付いたら解散ツアー売り切れてた!!
さかなクンを題材にした「さかなのこ」のエンディングテーマで、初めてCHAIを知った(たぶんどこの界隈にもいる”〇〇勢”と古参から蔑まれるニワカ扱いになる入り方だと思われる。ちなみに映画も傑作なので是非)。
ゆるい感じは全面に出ているのに、全然ゆるくないエグいメロディーラインと曲構成で、とにかく他の曲を漁れば漁るほど、見れば見るほど格好いい。
実際、さかなのこのエンドロールでこの曲を聞いたとき、映画の作風も相まり、ゆるふわソングかなと思っていたところ、バチバチにかっこいいやんと劇場を出てすぐさまダウンロードしたのをよく覚えている。
特にリズム隊のエッジが立っており、いろんなところでレッチリみがあると言われているのもなんとなくわかる気がする。
熱心にフォローしてたわけじゃないが、ライブに行ってみたいと思った頃には解散が決まっていて、チケットも全公演ソールドアウト。マジで悔やまれる。
Mr. Brightside / The Killers
20年前にリリースされたときも死ぬほど聞いてたが、この20年の間でも定期的に聞いていた曲。
正直なところ、The Killersの他の曲はほとんど知らない。The Killersのファンが近くにいたら平謝り案件ではあるが、やはりこの曲のアンセム感はそんなこともどうでもよくさせてくれる。
「Mr. Brightsideが好きなんだからいいじゃない!」と肩を組んでボン・クレー並に冗談じゃないわよ〜〜〜という気持ちで合唱したい。
どの世代の人の中にもアンセムというものがあり、私の中でもDon’t look back in angerと並んでアンセム化されているのがこの曲だ。この曲を会場全体で歌うためだけにライブへ行きたいと思わせるほどのアンセム。にわか扱いされても良いんです。死ぬまでには1回体験したい。
そんなことを思っていたときに見つけたのがこの動画である。
もともとのオリジナルバージョンでも歌詞の1単語目から大合唱が起こる名曲だったが、何をトチ狂ったのかThe Killersは”それ以上”を求め、結果こういうアレンジになった。
最初は原曲よりも数テンポ遅く演奏し、楽器隊の音数もかなり絞った必要最低限での演奏で1番のサビまで行く。観客はこれに物足りなさを感じつつも、アンセムMr.Brightsideを生で聞けていることにやはり大合唱をする。
1番が終わったら満を持して仕切り直し、オリジナルのテンポ、音数に戻し歌い直す。
ボーカルの「You want some more?!?お前らが求めてたのはこっちバージョンだろ!?今からやってやんよ!かかってこいよ!」というドヤ顔も見どころである。
観客も「これこれこれ〜!!」と大盛り上がり。
ちなみにもし自分がこのように演奏することを知らずにこの場にいて、このバージョンを披露されたら正気を保てる自信はない。声帯が引きちぎれんばかりに歌っていると思う。
是非ごらんあれ。
Goodbye Los Angels / ELLEGARDEN
とにかくエモぉぉぉぉおおおおおい!!!!
エモいも死語になりつつあるので、ちゃんと日本語で言い直すことにする(既に死語になっている可能性は大いにある。35歳の私にとって言語の移り変わりは速すぎて置いていかれている感がある)。
せ〜〜のっ!
感傷的〜〜〜〜〜〜〜〜!!(語呂が悪い・・・)
こんなどうでもいいことは置いておいて、本題に戻ろう。
The HiatusやNothing’s Carved in Stoneなどをそれぞれ経て、ELLEGARDENも俺らもおじさんになったのに、こんなにド直球のエモソング収録するとは接待が過ぎる!
So many scenes I can’t let go
Pictures on my phone still linger on
Because our yesterday is over now
So many seasons come and go
Farewell to the city of the sun
Till I come back to the end of yesterday
今もこれを書きながら、この歌詞に共感できるようになったのも歳を取った証拠かもしれないと、エモく感傷的になっている(おいしくて美味い みたいな小泉幸太郎構文)。
この曲が発表されたときは色んな事を思い出しながらこの曲を聞きまくっていた。
I'll keep coming / Low Roar
小島秀夫監督作品Death Strandingで知ったバンドと曲。
作品の世界観にぴったりで、神懸かって格好いい。
今でも夜の湾岸線沿いをまったりドライブするときなどはいつも聞いている。もちろん他の曲もそれぞれ世界観があり死ぬほど格好いい(格好いいしか言えなくなっている語彙力は無視してもらって結構。だって格好いいんだもの)。
また別の思い出として、来日公演がある。
ゲームを全クリしたかそれくらいのタイミングで来日公演のアナウンスがあり、アメ村のAnimaでするライブのチケットをすぐに取った。整理番号6番の神チケットだった。
しかしすぐにコロナ禍になり無期限来日延期。そのときはアナウンスにあったいつか必ず来日するという言葉を信じ、払い戻しには応じずチケットを持ったままにしていたが、ついぞそのチケットを使うことはなかった。
不幸なことに2022年にボーカルのRyan Karazijaが亡くなってしまったのだ。思い出と言うにはあまりにも辛いことだが、この曲を聞くとそのことも必ず思い出す。
ゲームの世界観と現実世界のコロナ禍の思わぬリンク、そのゲームに色を添えたこの名曲、そして行けなかったライブ、というように1曲にいくつものレイヤーが自分の中にはあって特別な曲である。
2人のストーリー / YUKI
私は作詞も作曲もしたことがない。
何を突然ほざいているのだと思うかもしれないが、私がこの曲を語る上でこれが非常に重要である。
何かの曲を聞いたときに、「この歌詞はすごい!」「なんて耳に残るメロディーなんだ」と思ったことが皆さんにもあると思う。しかしそこから更に一歩進んで「この曲なら自分でも作れそうだ」と思ったことはあるだろうか。制作に携わる者ならあるだろうが、イチ消費者だった場合、その割合はガクッと下がるのではないかと思う。
そこでこの曲である。
私がこの曲を聞いたとき、素晴らしい名曲だと思ったのと同時に「今の生活を捨て、全てにおいて作詞作曲に全振りしてもこの歌詞とメロディー、そしてメロディーにこの歌詞を乗せるセンスは自分からは生まれ出てこないだろう」とも思った。
日本を代表するアーティストであるYUKIとBMI値も管理できていないおデブメガネちゃんの自分を同列に考えているのは甚だ申し訳ない限りだが、そう思ってしまったのだから仕方がない。
そしてこの思考に至った際、昔インタビューを受けている福山雅治の姿も思い出していた。
彼は「プライベートで好き好んで聞いている曲はメタルやハードロックで、自分が作曲して歌っている曲とは似ても似つかないものだ。しかし作曲するとなぜか自分の中から出てくる音はこうなってしまう」と語っており、今まさに湧き上がってきた思考はこれに近しいものではないかとさえ思った。どれだけ経験を積んでも自分の出力端子からこれは出てこない。
YUKIに飽き足らず福山雅治とも自分を重ねている私を許してほしい。アホここに極まれり。二人のファンに土下座ものである。
しかしとにかく出だしのこの歌詞を見てほしい。
待ち合わせはローソンで おにぎりを2つ買って家
この1行でノックアウトである。
ローソンも我が家の近くにあるし、コンビニおにぎりも1週間あれば2つくらい食べている。
なのにこれを歌詞の1発目に持ってこようとするセンスを自分は持ち合わせていない。
さらにこのようなミニマムな内容から歌詞は人間の普遍的な愛について語り始める。
ただ君を想い 幸せを願い 暮れゆく黄昏の中にいた
生きてる それだけが代わりのないストーリー
もうたまったもんじゃない(褒め言葉)。
しかもこの歌詞は極上のメロディーに最高の乗り方で乗っており、波乗りジョニーも真っ青である。
これが作詞も作曲もしたことがない自分が、スタートラインに立つ遥か数百光年前からもう完敗だと痛感した1曲である。本当にいろいろすみません。
道 / 宇多田ヒカル
この曲は自分にとってとにかく歌詞である。
この10年で一番シンパシーを感じている歌詞だと言っても過言ではない。
歌詞の解釈は人によって様々だが、たぶん一般的にはこの歌詞は愛する者の存在が自分の原動力になることについて歌ったものだと思われている。
しかし私はこの歌詞を「自分を支えてくれる・指標となるような人について歌ったもの」だと考えている。
話は脱線するが、私は外国人に日本語を教える仕事をしている。いわゆる日本語教師である。
「教師」と言っても小中高生の教員のように公務員ではなく、一般的な基準で考えると薄給であり、外国人が悪さをすればセットで叩かれるような社会的にもまだまだ立場が弱い仕事でもある。
詳細は省くがこの仕事をしようと考えたときに自分の周りには先達となる人物が2人いた。
2人は大学の同級生ではあるが、既に日本語教師として働いており、私はこれから歩んでいく道の遥か先にいる大先輩だと勝手に考えていた。前述のように不安定な部分もある仕事で不安も常にあったが、この2人がいるのならどんな状況でも頑張れる気がしていた。そんなときにこの曲の歌詞に出会った。
転んでも起き上がる
迷ったら立ち止まる
そして問う あなたならこんな時どうする私の心の中にあなたがいる
いつ如何なる時も
一人で歩いたつもりの道でも始まりはあなただった
(中略)
一人で歩まねばならぬ道でもあなたの声が聞こえる
(中略)
私の心の中にあなたがいる
いつ如何なる時も
どこへ続くかまだわからぬ道でもきっとそこにあなたがいる
まさにこの仕事における自分と2人の関係について歌っている歌詞だと思った。
友人関係ではあるが、私は2人に尊敬に近い感情も強く持っている。
話は現在に戻るが、2人のうち1人は数年前に亡くなってしまい、もう一生追いかけ続けるしかない存在になってしまった。もう1人は日本語教師を続けている。
しかし私もそうだがいつまでこの仕事を続けるつもりかはわからない。辞めたいと言いたいわけではなく、単純に将来のことだからわからないという意味だ。
おっさんぽいことを言うと、歳を取ると考えなければならないことが否が応でも増えるのだ。
きっと日本語教師を続けているもう1人の彼もそう考えているだろう。その彼にこの仕事を強制するつもりは一切ないし、仕事を変えても非難するつもりもない。なんなら彼が仕事を変えても私は残念がることもしないだろう。
現状、私は十分幸せであり、充足している。
彼が辞めてもこの幸せや充足感は失われないほどに、しっかり自分でこの道を歩めているという自負も持てるようになった。
しかしあの時、不安を抱えていたあの時に道の遥か前方から手を引いてくれた人が、引き続き同じ道を歩き続けてくれたら、もしくは一緒に歩いてくれたら、どんなに幸せかは言うまでもないだろう。
そんなことをこの曲を聞くたびに思う。